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写真について

ミライクチセのスタッフとして働くようになり2か月経ちました。
事業所内の風景・出来事の記録などのイメージが必要になることがよくあり、たまたまデジタル一眼を所有しているということで、写真撮影を時々担当します。

実際、大した撮影技術も知識も無いのですが、写真を観るのは結構好きで、展覧会に行ったり写真集を眺めたりすることはよくあります。

 

 


個人的には、アンドレアス・グルスキーや柴田敏夫などの、物質的でミニマルな写真が特に好きで、人間性が排除された無機的なものや全体主義的なイメージに大変興味があります。

 

さて、被写体が人物の場合はとりわけ、カメラマンと対象との緊張関係が写真に強く表出してきます。カメラは客観的な位置ではありえず、非対称な力関係の中で、例えば被写体を抑圧する位置にあったり、逆に対象に圧倒され動揺したり不安定になったりします。

 

 

前者の例で有名なのは、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『欲望』(1967)に出てくるカメラマンとモデルの撮影シーンで、セックスやレイプを連想させるものになっています。周知のように、篠山紀信や荒木経惟などの一連の写真(両者はスタイルが異なるが)も前者のタイプと言えます。

篠山については、以前勤務していた事業所のブログに記事を書いたことがあります

 

 

荒木の場合、半年ほど前、「#MeToo」運動の流れの中で、かつての女性モデルに告発され話題になりました。過激な撮影、ヌードの強要、疑似的な愛人という役割によって精神的に追い込まれてしまったという内容でした。

 

荒木は、妻・陽子との私生活を撮影した『センチメンタルな旅』で、「私写真」というジャンルを切り開いたことで知られています。現実と虚構の入り混じった景色を、私的に日記のように切り取った写真。同時にそこにあるのは、撮影者の被写体に対する抑圧と共犯関係です。

 

写真史研究者の戸田昌子は、この告発について次のように述べ、「私写真の終わり」と呼びました。

 

「私写真」があらかじめ含んでいた、弱者を共犯者にして成り立つ、見る者の権力性があらわになったからこそ、「私写真」は終わらなければならない。特に家庭やプライベートな領域の撮るものと撮られるものとの非対称性があらわになり、それが告発されている以上、その方法論はいつか終わる。

 

「崇高」なものとしての芸術の生産。その過程で生じるリアルな支配と被支配の関係。簡単な答えはないですが、写真はそうした問題が端的に露出する芸術形式であると強く感じました。(サトウ)

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